心で感じて

アセンション ー 気づき

母に対する思い

私は長年神経を使う仕事をしてきて、自分はなかなかよくやっていると思っていました。
未だパソコンも無い時代から、穴の開いたパンチング・テープで表されているアルファベットの文字を読めたり、簡単なパソコンの原型と言いますかMS DOSとかを使って予実算管理をしていた時代もこなしてきました。
その後もかなり緻密な仕事を任され、最後の詰めまできっちりやるので信用が高かったと思います。

 

そんな私からすると前時代の母は大変大雑把な人でした。よく言えば「おおらかな人」ということです。
母が私達子供に怒ったのを見たことがなく、いつもにこにこしているという感じで、友達が遊びに来ると殆どの友達が「お母さん優しいねー」だったのです。私はこれが当たり前で普通だったので胸の内では(ふ〜ん、やさしいんだ)という具合です。よそで優しくないお母さんを見たことが無かったので余計そう思っていました。

江戸っ子で、戦時中は今で言う高校生の女学校時代には兵隊さんの軍服を縫っていました。当時の敵国である米国の爆撃機が襲って来ると自分の母親の手を引いて代々木練兵場辺りを逃げ惑って生き残ってこれた人でした。

また、面白いことを言ったり、やってしまったりする人でもありました。女学校に通っていた時分、お裁縫の時間に布生地をハサミで裁っていたら、気がついたら自分のスカートも一緒に切っていたとか。

兄が不精をしてレコードを交換せずに2枚重ねたまま針を乗せようとしたのを見て「どんな音が出てくるの?」と尋ねられてびっくりしたものです。
また、アイロンがなかなか熱くならないと「コードが長過ぎるのかしら?」という具合いです。

昔は、複雑で難しい大変なこともそんなに無くのんびりした暮らしで、六人兄妹の一人離れての末っ子。
すぐ上の姉とは7つも歳が離れていたので皆に可愛がられていたようです。
姉達が結婚してしまったら一人っ子の様なものでお母さんから可愛がられていたと思います。こんな愛すべき母だったのに私は何が不満だったのでしょう。

 

私の勝手な不満

2020/5/25に綴った日記から
何故、母を完全に愛せないのか自問した。これを乗り越えてポジティブな生き方を確かなものにしたいから。 
・抱っこされた記憶無し(抱っこされている写真が残っているが) 
・「男に負けずに何でもやりなさい」と言ってくれた割に進級入学できた大学は諦めさせられた。
 (父の経営している会社が倒産した為。父は幼い頃から「悪いことをしなければ何やってもいい」と私達
 子供に言っていましたが。) 
・体裁ばかり取り繕う後ろ姿を見て軽蔑。
・心にもない事に同意または約束。(いい加減と思った)
・話しかけても全く返事が無く、聞こえてないのか聞くと「考えてた」と答えるコミュニケーションの無さ。
・私が在職中お母さんリーダーをやり、娘の通うガールスカウトでは私の母が「ママが仕事中は私が頑張って子供    達をみてる」と自分がいないと回らないことを自慢している様子。まるで私が母親らしいことを何もできないか   の様に人様に言いふらす事はない。
 (※あとから思えば、職業婦人だった私の母は専業主婦になり他から認めて欲しかったのかなと思いました。)
・私の娘に考えさせる機会を殆ど奪ってきた。母は娘が困らない様に困らない様にと先に先に手助けしていまし  た。私は子供は困った時に考え成長するから先に答えを出さず、なるべく手を出さない様にしてほしい、一緒にどうしようと言って考えさせてと頼んでいたのです。
・「ママが安心して仕事が出来るように自分は健康に気をつけている」と豪語してたにも拘らず、体操も何もしてこないで健康を害している。
・掃除が嫌いで何もしない。「わたしには(埃など)何も見えない」とうそぶいていた。
・本を読んでも早いだけで本当には理解していないと思われる。
・何も聞いてもいない内から、自分がやったのに、「見た事も無い。知らない。」と真っ先に保身に走る。
 証拠は無視する。(※認知症のせいだったか。そうなる前は「ごめんなさい」と言っていたかも)
・何も努力しない母親の様にはなりたく無いといつも思っていた。   ・・・以上

自分のエゴ

人は積もり積もった体験から偏った見方しか出来なくなる。私の場合もそうでした。
自分の物差しからしか見ていなかった。自分から見ると大雑把でいい加減、というところだったのでしょう。
しかし、介護をしながら不満な気持ちが残ったまま介護して歳を重ねていくのは嫌だ、どこからこんな気持ちが出て来るのだろう?どうしたらいいのだろう?本当は母を大好きでいたいはずなのに何でだろう?とずっと胸にありました。

それは私が自分を大事に護るための武装したエゴだったのですね。
それを外していけたのは最初は「お母さんにしてもらったこと」という本を積読の一冊に持っていたのでそれを手に取った時です。関心を引く中身のちょっとしか読めませんでしたが、その言葉を頼りに昔からしてもらったことを次々と思い出していったのです。

それはたくさん沢山ありました。
十月十日お腹の中で未だ男の子か女の子かもわからない時でしたが、大切に育んでくれたこと。
三人目にやっと待望の女の子が産まれてどんなに喜んでくれたことでしょう。
布おむつしか無い時代に季節を問わず洗濯板で手で洗濯してくれました。
健やかに育つように元気な時も病気の時もいつも気にかけてくれていました。(8歳の頃、後2時間遅かったら死んでたいたという時には1ヶ月も入院していましたが、当たり前の様に毎日病院に来てくれました。)
毎日毎日頭を悩まして美味しい料理を作ってくれました。
裁縫が得意で私の服を何枚も縫ってくれていました。
「男に負けずに何でもやりなさい」と励ましてくれました。
婚約解消した人の家に謝罪しにもいってくれました。
嬉しいことがあった時はいつも「良かったわね」とにこにこと一緒に喜んでくれました。
私が母に怒って文句を言っても黙って聞いてくれて、翌朝には思い直したように明るく話してくれました。
一緒にお墓参りに行ったり、お昼に誘ってくれてお金の忙しい私にご馳走してくれました。
「石に布団は着せられず」「あると思うな親と金」ということわざを私が若い頃からよく言って聞かしてくれました。
母は60歳を過ぎた頃からはがき絵を初め、最初はそんなに上手くありませんでしたが、20年以上も続けていると大層味のある絵を描いて沢山残してくれていました。
話せば尽きません。

しかし、私が母にしてあげられたことはそれの何十分の1でしょう。
介護の年数からしても、優しさからしても母には敵わなかったのです。
しかも孫達の世話と介護で私は心身に余裕を無くして母にそんなに優しくは出来なかったのではないかと思います。
せめてもの料理だけは満足してもらえる質と量を作っていたとは思いますが。(最期、母が入院していた時は「早く家に帰りたい。ここのご飯美味しくないから家に帰りたい。」と看護師さんのいる前で言われた時は苦笑してしまいました。)
そういうことが心に迫るようになったのは母が亡くなる3ヶ月まえ位からでしょうか。

感謝

そして、母が2020年のクリスマスに亡くなった時には母の亡骸の前でただひたすら「ごめんなさい!ありがとう!」しか言えませんでした。全て感謝しかないです。感謝の気持ちこそが人の心を柔らげ、気づかせてくれて、そして一層よい心の状態の自分にしてくれたのです。

母の絵手紙のご友人達からも私にお手紙を頂いたり返事を書いたりしました。
今は母の個性をより寄り添って理解できるようになり、母には母の人間関係があり幸せな世界が広がっていたのがよく理解できました。
今は、息子には息子の幸せな友達関係が広がり世界を持っている、娘は娘の幸せな世界を持っている、と立体的な視点で「あー、良かったね」とくっきり見れる様になりました。

今日も最後までお読みいただきありがとうございました。
どうか良い一日をお過ごしください。

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